北京オリンピックが面白くないのは認めるが(テレビを見てもつまらないスポーツ種目ばかり)、ニッポンのマスコミや、ネットでは「エライ」評論家という人が、「口パク唱歌」や「CG花火」ばかりを論じるのは如何なものか。掲題の言葉を思い出してしまった。
オリンピックはお祭り。それも主催国のお祭りだ。人の家のパーティーに招待されておいて後から悪口で盛り上がるのは、井戸端のおばさんみたいで「品格」に欠ける。
中国に比べてニッポンのメダルの数が少ないのにイライラする気持ちは分かるが、そんなことでしかナショナリズムを満足させられないとすれば、アホ丸出しではないかと悲しくなってしまった。
向こうも向こうだが、こっちもこっちだ。掲題の箴言は真理である。
4 件のコメント:
同じ顔ぶれの評論家やタレントがあっちの局、こっちの局でどうでもいいことをしたり顔に批判、非難する。この面でのわが日本人の愚かさも極まれりというところですか。
ご存知アメリカではキー局はNBC、ABC、CBSの3局しかなく、しかもそれぞれが番組編成や構成に特徴をもっているのに対し、日本では5局が恥ずかしくもなく同じような番組を繰り返しタレながしています。
(最近の事情は疎いものの、オリンピック放送もNBCだけでのはず)
悲劇的なのは5局は全部5大新聞の系列(TBSは若干違うしフジはサンケイの親会社だが)にあり、親会社の競争からいっても、これらくだらないテレビ局のひとつでも消え去ることはないであろうということです。
民放は見なければそれでいいのですが、「公共放送」とやらはしっかりお金を取られた上に、有り難い「洗脳番組」を強制されるのは困ります。ああいうのはスポンサー(つまり特定政党とそれを支持する既得権集団のこと)が明確に特定できるのだから、あいつらからお金を取ればいいと思う。
民放キー局の“よそがたるからうちもやる”と競うように同じ事象を繰り返しとりあげることが時に世論を煽り、同じ事件の繰り返しやナンセンスお笑いタレントの粗暴な振る舞いの放映が世相の形成に影響を与えているのでは。
民放の番組が政治の劇場化、政治家のタレント化、タレントの“政治家化”そしてポピュリズム政治をもたたらし、われわれの凶悪犯罪に対する感覚を麻痺させることに“一役”かっているのではないかというのが私の思いです。
実際のところは、民放の番組はほとんど視ていません。
どっかの新聞のコラムニストが例の「口パク」事件を孔子さまを引用して「批判」してましたが、これは朝鮮半島に歴史的に見られる「我こそが正当な儒教精神の伝承者なり」という意識ですかな。笑ってしまった。司馬遼太郎はこの朝鮮半島人の思想を「屈折した腸捻転的糞詰まり」と言ってバカにしてますが、彼がまだ生きていたらニッポン人の屈折したナショナリズムに対しても同じことを言ったでしょうね。
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