2008年10月25日土曜日

なぜニッポン人は刹那的なグルメ消費に法外なお金を遣うのでしょうか?

テレビを観ていたら、またしても「大間マグロ」の宣伝番組。なんでも消費者は「国産」という名前が付くだけで数倍の値段を払うらしい(日経Plus1)。日経夕刊の新連載「おたふく」(山本一力)も、鱶のヒレにお金の糸目を付けない札差のために経済性を無視してたいへんな苦労をする江戸商人のお話。世界大不況が今から始まろうというのに、実に脳天気なものだ。紀田順一郎先生もこの風潮を憂っておられたことを思い出した。

と思って紀田順一郎センセーのHPを観ると、すでに閉鎖となっている。幸いメモしていたテキストが残っていたのでご紹介。「ニッポンの成金のお金の使い方」というタイトルだったと記憶する:

■国民性ということには相違ないのですが、こうした性格をつくりあげたものは、長い長い鎖国時代を通じて、上昇志向や一定の努力が、巨大な壁のような支配社会体制によって全面的に阻まれてしまう風土をつくりあげてしまったのです。福沢諭吉が「封建制度は親の敵(カタキ)でござる」といったその言葉には、血を吐くような怨念がこもっていたといえましょう。
 
■江戸時代の商人は、いくら稼いだところで、社会の上層には参画できません。階級的な地位が低かったからです。ここにもうけを絶対に公共に還元せず、衝動的に濫費するのが当然、どこが悪いという感覚が生まれたのです。市民的革命を経た西欧ブルジョアジーとの決定的な差異といえましょう。


けだし名言。ニッポンの庶民は、いくら努力しても制度的に道が閉ざされているため、上層への移行が出来ない。だったら手軽に出来る「グルメ」とやらで刹那的な満足を見いだすしかないのである。江戸時代にいくらお金があっても身分制で縛られて上層への道を閉ざされていた「札差し」と同じなのである。

平成の時代になっても、封建時代と同じような閉塞感が社会に漂っている。無理やり這い上がろうとしたホリエモンなんかはエスタブリッシュメントによって社会的に葬り去られるし、政治家はイナカ地主の二代目三代目ばかり。人々は「グルメ」とか「エコ」とやらに逃避するしかないのだ。でも、それで儲けるのは、日本の支配者階層であるであるノーソン既得権集団。

悲しいことである。

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